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2017年2月9日木曜日

「『いじめ』が日本の学校からなくならない理由」に関する記事と私の考察 2017/04/20追記

とても興味深い記事を見つけました。

日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由

上の記事は非常に秀逸な記事だと思います。

私も「いじめ」は責任の観点からすれば、犯罪だと思います。

本来であれば警察が取り締まるべき問題だと思います。
そうして、教師は責任をとって懲戒処分を受けるべきです。

それが「いじめ」という言葉で教育の問題に矮小化されているのは、学校という「膜」の中に子供たちが閉じ込められているからだと記事の著者は指摘します。

魂の観点からこの記事を読むと、新しく生まれる子供たちというのは一個の魂を持った存在です。

私たちが子供を産もうとして子供がこの世に誕生してくるように見えますが、魂の世界から見れば逆で、生まれたい魂が先にあって、子供が誕生するのです。

このように「いじめ」という犯罪がまかり通ている学校の環境では子供はもう日本にはあまり生まれたくないと思っているのかもしれません。

だから、少子化が嫌だというのであれば、学校の環境を改善することも、魂の観点からすれば、重要な少子化対策になると私は考えます。

子供を持とうとする親だって、今のような学校環境の中に子供を送り込むのは不安ではないでしょうか。

子を思う親の気持ちは私には想像することしかできませんが、そのような不安を感じる方もいらっしゃるとは思います。

私自身も結婚したとしても、今の学校環境の中に自分の子供を預けたいとはあまり思いません。

できれば自分で教育したいぐらいです。

そもそもの学校の成立を考えれば、学校とは軍隊の優秀な兵士を育成する場所だったのです。

体育会系の部活などがいい例です。

上官が「突撃!」と叫べば、部下が「おー!」と言って自らの生死も考えず突撃する、そういう「兵士」を要請するのが学校の目的だったのです。

戦後は「兵士」が「企業戦士」に変わっただけです。

上司が「右だ」といえば、「はい!」と返事してYESマンになることを訓練しているのが学校という場所なのです。(特に体育会系の部活に顕著)

ここで一応断っておくと、私自身は「はい!」と返事をすることは大事だと思っています。
これは「指導される力」という力がこの世の中には存在していると思っているからです。
「指導される力」がなくては指導する側がいくら優秀でも指導される側は成長しないのです。これは部下を持っている方や教える相手がいる方は理解できるのではないでしょうか。聖書にも優秀なものを1度叱ることは、愚鈍なものを100回叱るよりも効果があるというようなことが書かれています。
ただし、間違っていると感じたことには、間違っているとはっきり主張することも大切だと考えます。これには、勇気が必要です。なぜならば、上司は部下の生殺与奪の権利を持っているからです。
けれども、勇気を出せば言えないことではありません。そして、その勇気が本物であれば、心ある上司であれば、その意見をしてくれた人に最大級の感謝をささげるでしょう。
なぜならば、上司とはその力ゆえに時に話し相手に気を使われすぎることにうんざりすることがあるからです。
だからと言って、何でもかんでも気軽に行っていいかというと、それは違います。
なぜならば、上司は生殺与奪の権利を持っているからです。
最大限の配慮をしつつ最高の勇気を持って相対することが自らの魂を向上させるとても良い方法だと思います。
この件に関する参考文献には「貞観静養」(新釈漢文大系 (95)、原田 種成 (著))があります。
(アマゾンリンク :https://goo.gl/WA2np0)

私が問題だと思うのは、理不尽なことにまでも「はい!」を要求するということです。
また、そうした場合、対応方法は少なくとも三つあると思います。
一つは黙ってそこから去る、もう一つは、返事をする前に、どうしても腑に落ちない部分を中心に、なぜかと言うことを聞くことです。
本当に、意味のある命令を発している上司であれば、その意味をあいての理解力に応じて、話すことができるでしょう。
そこでももちろん勇気は必要です。
「勇気」を出せばなんでもできる!
私はみなさんの味方です。

あるいは自分の意見をどうどうと発信して論戦を行うことも時には必要だと思います。
ただし、それには相当の言い方や論破の仕方を論理だけでなく感情面でも行わないといけないと思います。

一般の社会であれば、どうしても合わない上司のもとからは、部署を移動したり、場合によっては転職することで離れることができます。離れることも「合わないところから去ることができる力」という立派な力だと思います。

だから、学校を自分の意志で転校したり行かないと判断できる人というのは立派な力「合わないところから去ることができる力」を持っていると思います。

この力がなぜ必要になるのかというと、上の記事にも少し書かれていましたが、宗教で考えれば分かりやすいのです。たとえば、人々に悪いことを行わせる宗教があった時に、オウム真理教の事件を見ても一度洗脳されると容易には人がそこから抜け出すことは困難であるということが分かります。
つまり、宗教組織という「膜」の中では何が正常で何が異常かという考え方が外部の世界と異なっていくことが多いということです。
学校という「膜」の中でも同じことです。

そのようなことを考えると、「学校教育の場から離れることができる人たち」≒「自分の頭で考えることができ、自らをおかしな洗脳から解除できる人たち」と言っても過言ではないと私は考えます。

そういう人たちが自由に学べる場というものがもっとあってもいいかもしれないと思いました。

今後の私の活動の一つの方向性になるかもしれません。

一つの記事と私の過去の経験から今日はいろいろなことを書きました。

この記事が誰か一人にとってでも何らかの参考になれば幸いです。

また、私がここに書いていることはすべて一人の人間の提案であり、命令などではまったくありません。

こういう考え方もありますよ、という私からの個人的な紹介です。
考え方というのはほかにも無限にあり得ると思います。
自分で考えて、好きな方法を選択してみるというのも面白いのではないでしょうか。

これもあくまでも提案です。

みなさんの自由にしてください。

私はみなさんが大好きです。

ただし、この世界には法則が働いていると私は感じていますので、自由を得るためには法則を学ぶことがとても大切になると私は思っています。

宗教とは法則を抽象化したものです。

抽象化されているのでその背後にある法則を自分で見出さなければならないし、そうしないとその法則を使うことはできません。

みなさんが学ばなくても私はみなさんの代わりに学びます。

ただし、真の自由を目指すのであれば、学ぶことも悪くはないかもしれないのではないかと思います。たとえば、少なくとも、相手との縁が良い縁なのであれば、お互いに感謝をしながら話している間は、別れることはなく、また、私は神様が大好きなので、神様が本当に大好きな間は、誰も別れることはないと私は思っています。神様が好きでない人でも神様という言葉を知っている限り別れることはないと思います。

神様について学ぶ際に、参考になる書籍を紹介いたします。

だれか一人がどれか一つでも読んでくれたら幸いです。

私の理解もまだまだ途上なので、難易度は私の独断と偏見でつけております。

みなさんの受け取り方と異なる可能性がありますので、ご注意ください。

『古事記』(池澤夏樹 訳、河出書房新社)(文章量 少、難易度 最高難度)、
『新釈古事記伝』(阿部國治 著、栗山 要 編、致知出版社)(文章量 多、難易度 易)、
『歎異抄』(角川ソフィア文庫、浄土真宗)(文章量 少、難易度 難)、
『法華経』(日蓮宗、天台宗)(文章量 多、難易度 難)、
『般若心経』(真言宗)(文章量 少、難易度 難)、
『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)(文章量 多、難易度 難)、
『シュリーマッド・バガヴァッド・ギーター』(日本ヴェーダーンタ協会)(文章量 中、難易度 難)、
『聖なる科学』(スワミ・スリ・ユクテスワ著)(文章量 少、難易度 難)、
『宗教の科学』(パラマハンサ・ヨガナンダ 著)(文章量 中、難易度 中)、
『人間の永遠の探求』(パラマハンサ・ヨガナンダ 著)(文章量 多、難易度 易)、
『神秘形而上学入門』(平一 著、ブイツーソリューションーション 発行)(文章量 中、難易度 難)
『バーガヴァタ プラーナ』(文章量 多、難易度 難)

天地人の加護と因果の法則~良縁の結び方~

ご挨拶

みなさん、こんにちは。
今日は私の気づきについて共有したいと思います。
今日気づいたことは、人間には3つの加護があるということです。
すなわち、天の加護、地の加護、人の加護です。また、輪廻が終わるまで人は因果の法則の中を生き、自分の蒔いた種(原因)から生じた果実(結果)を天地人の縁に出逢って刈り取ります。天地人における加護とは良縁のことです。この記事を理解し実践できれば良縁を結ぶことができると思います。
それぞれの内容について説明します。

人の加護(良縁)

人の加護が一番分かりやすいと思ったので、人の加護から説明しようと思います。
人の加護とは人との良縁と言い換えてもいいかもしれないです。
悪縁は悪い影響がある縁なので、加護はありませんが、それにも意味はあると思います。
それは自分の中にある何かネガティブなものの反映なのです。
自分の心の中に悪いものがない人は新たな悪縁を生み出すことがありません。
もし自分の中に本当に悪いものが無いのに悪縁があるという人は過去の原因が結果となってかえってきているだけだと思います。
人の加護を得る方法は「ありがとう」と人に言うことです。
何もしてもらっていなくても一緒にいてくれていることだけでも「ありがたい」ということに気づけば、「ありがとう」ということに抵抗は特にないはずです。
ただし、誰かれ構わず「ありがとう」と言いなさいということではありません。少しでも同じ時間を共有できたなと思った相手に「さようなら」の代わりに「今日はありがとうございました」と言って別れるのもありではないでしょうか。
「感謝する人にはさらに感謝したくなるようなことが生じる」という宇宙の法則を以前話しましたが、これは人との縁にも適用できます。
ほんのちょっとした縁に感謝できる人はさらに感謝したくなるような縁に出会えるでしょう。
そうすることによって、自分の望む縁を引き寄せることもできるようになるのです。
また、悪縁に対しても別れ際に「ありがとう」ということで、その悪縁から離れることができます。もしくは、その悪縁が良縁に変わったりします。
なぜならば、「ありがとう」といったということは相手の中の良い部分を見たということなので、「良い部分に感謝する人はさらに感謝したくなるような良い部分が与えられる」という結果を生み出すことができるからです。
本当の悪縁ならば別れ際の「ありがとう」の積み重ねにより、どちらかが離れていくことになり、縁が途切れるでしょう。
つまり、人との別れ際に「ありがとうございました」と言うこと(原因)で良縁が引き寄せられる、良縁が結ばれるという結果を生み出すことができるということです。
因果の法則や良縁を結ぶことの本質的な方法というのは以外とシンプルなことの中にあるのです。
あと人は必ず親から生まれます。なので、誰にも感謝できない人でもこの地上に産んでくれた親に感謝することはできるはずです。また、人間関係がない人なんていないはずです。なので、誰でも近くにいる人に感謝することはできるはずです。
だから、やろうと思えば誰でもこの感謝をすることはできます。やろうと思うかどうかです。

地の加護(良い環境を引き寄せる、良い環境・物との縁)

地の加護の表す地とは何かというと、自分の住んでいる家や自分の周りの環境や自分の家の中にある物などのことです。
地の加護を得るにはどうすればいいのかというと、これも人の加護と基本は同じなのですが、まずは自分の家や周りにある物に感謝をする、「ありがとう」と言うということです。
これに一番効果的なのは「掃除」をするということです。家にある一つひとつの物に感謝をしながら掃除をすることで、家にある物があなたのためを思ってくれるようになります。物が人のためを思うというと不思議かもしれませんが、物にも「心」はあるのです。
物だって感謝されるとうれしいと思うのです。
特に不必要になったもの(ゴミ箱に捨てるもの)に特に感謝すると良いでしょう。
なぜならば、ゴミ箱に捨てるものは一度は自分に縁のあったものだからです。また、もう一つにはゴミを捨てることによって何を自分は必要としてないかということが分かるからです。さらに、捨てるものに対して「ありがとう」というとともに「新しいものに生まれ変わってね」と思うことで、不思議と必要な物に困らなくなります。おそらく、この人の家にいけば悪いようにはされないということを物の集合的無意識も感じるのではないかと思っています。
この宇宙のすべては神様の表れであるということを以前話しました。物も神様の一部なのです。なので、信仰心を持っている人は物を大切にすることで物からも大切にされるのです。この世の中は作用が存在するところには必ず反作用が生じるので、物に感謝すれば物からも感謝されるのです。なぜならば、物も神様の一部なので、物の背後にある集合的無意識(神様に通じる意識)が感謝を返してくるからです。
そうすると不思議と今度は対人関係でも大切にされるようになってきます。
集合的無意識は物だけでなく、人の高次の意識において一つにつながっているからです。
全てはONE PIECEなのです。
また、いろいろな物がこの世にあるということは全て過去の人間のおかげです。特に近しい過去の人間、すなわちご先祖様のおかげであることがほとんどだと思います。
なので、ご先祖様に感謝することも地の加護を得るためには大切になってきます。
ご先祖様に感謝する人も不思議と物に困らない生活を送れるようになるでしょう。
もし家に仏壇などがある方はその前でご先祖様に感謝すれば地の加護、物に困らず必要なものがある状態で不必要なものに感謝して別れられる状態、に恵まれるでしょう。
だれでも食事をとったり水を飲まないで生きている人はほとんどいないと思います。また、服を着てない人もあまりいないのではないでしょうか。だからこれも人の加護と同じように誰でも感謝することはできます。少なくともこれを見ている人はそのデバイスに感謝することができると思います。今私はPCに感謝しました。

天の加護(神仏や良き霊との縁)

天の加護とは神様や様々な宗教等における聖者からの加護のことです。地球出身の聖者がたで輪廻を卒業された(解脱された)方というのは、よく学校で卒業した先輩が後輩のことを見守っているように、私たち地球に生きる人類のことを思いやって見守ってくださっています。
なので、私たちはこの地球に生まれた時から神様からの加護も無条件で与えられていますし、聖者がたからの加護も受けているのです。
だから、そのような加護に感謝することは大切だと思います。
もちろん、これは直接は目に見える加護ではないかもしれません。
けれども、何度も現れる法則、「感謝する者にはもっと感謝したくなるようなことが与えられる」にのっとって考えれば、「神様に感謝する者はさらに神様に感謝したくなるようなことが現れる」と考えても何ら不思議はないと思います。
これは外からは見えないので、証明するには自分自身で実感するしかありません。
なぜならば、心の中はそとからはどうしても見えないからです。
心の中を感じられるのは自分だけだからです。
けれども、真実の強い信仰心があれば神様は必ず応えてくださります。
聖者がたに感謝することも大切だとは思いますが、聖者がたが伝えたかったことは、すべての良きものの中心の御方(神様)についてのことなのです。
なので、神様(この宇宙のすべての顕現と未顕現、金剛界と胎蔵界)に感謝することは聖者がたがもっとも望まれていることのうちの一つなのです。
だから、仏様に感謝することでもいいです。同じことだからです。
そうして、神様に感謝するとそれが原因となってさらに神様に感謝したくなるようなこと(結果)が縁を通じて与えられるでしょう。
これも見えないので分かりづらいかもしれませんが、まずこの宇宙を作ってくれた存在に感謝してみることです。それを続けることでもっと感謝したくなるようなことが与えられるでしょう。感謝することはただなので、やってみて損はないはずです。

注意点

今まで述べたことに関して、注意点が一つあります。
それはどの縁に対しても、たとえそれが悪縁であっても不平不満を述べてはならないということです。
悪縁にも自分が蒔いた種が良いものだったのか悪いものだったのかを教えてくれているという少なくともその一つの良い点が含まれているわけです。
だから、それに感謝できない限り、その教え(悪縁があるもしくは再び悪縁とつながる状態)は続きます。
すべての縁の中にある気づきに感謝できたときに、もはや悪縁は悪縁ではなくなり良縁になるか自然と縁が途切れるでしょう。
もし不平不満を述べれば「感謝する人にはさらに感謝したくなるようなことが与えられる」の逆が生じます。すなわち、「不平不満を述べるものにはさらに不平不満を述べたくなるようなことが与えられる」です。宇宙の法則とはこのようにポジティブ方向にもネガティブ方向にも同じように作用するのです。
だから、「天地人のすべての縁に対して不平不満を述べてはならない」し「もし不平不満を述べればさらに不平不満を述べたくなるようなことが生じる」ということを一つ注意しておきます。だから、今まで上で述べてきたようにすべての縁には感謝しなくてはならないのです。
もし何かされて嫌な思いがあるときは、「○○されると嫌な気持ちになるので、このようにしてください」と事実とどうして欲しいかということを具体的に述べると良いと思います。
なぜならば相手も気づいていないことが多いからです。事実を述べ改善して欲しい点を伝えることは不平不満ではなく愛だと思います。
それで離れて行く人はそこまでの人だったのです。
心ある人ならむしろそのように言われたら感謝してくれると思います。

まとめ

人には天の加護、地の加護、人の加護が生まれながらに備わっている。それぞれの加護は神や物や人に感謝するという原因によって、より一層大きな加護(良縁)という結果として与えられる。
注意点は「天地人のすべての縁に不平不満を述べてはならない」し「もし不平不満を述べればさらに不平不満を述べたくなるようなことが生じる」です。
改善してほしい点は「○○されると嫌な気持ちになるので、こうしてください」と具体的に伝える。
逆も真なりで、「天地人のすべての縁に感謝する人にはさらに感謝したくなるような縁が与えらる」ということが言えます。これが良縁の結び方ではないでしょうか。

2017年2月4日土曜日

給料を2倍にアップさせる方法

ご挨拶

みなさん、こんにちは。
この記事では私が感じる給料をアップさせる方法を書こうと思います。それを書こうと思ったのは、今日友達と話していて友達が時給をあげたいといっていて、私はそういえば前の職場でそういう制度もなかったのにアルバイトから正社員になったのでどういった考えで働いたらそうなったのか、という点が参考になるかと思ったからです。

給料をアップさせるための考え方

給料をアップさせる方法は結論を述べれば簡単です。
それは「人の3倍働くこと」です。
ただし、時間を延ばしてはいけません。同じ時間で人の3倍働けば給料は2倍になると思ってだいたい間違いがないでしょう。
これは会社がどう成り立っているかを考えれば分かります。
会社が求めているのは「仕事の成果」です。
何も、だらだらと長時間働くことは求められていないのです。
むしろ、残業をしなければそれだけ残業代を払わずに済むので会社としてはありがたいのです。
会社が求めているのは仕事の成果なので、短時間で同じ成果が出せるのであればそのような人財を優遇するのは会社から見れば至極当たり前です。
そして、そのためには「人の3倍働くこと」=「人の3倍の成果を出すこと」が必要になってきます。
人の1.2倍からせいぜい1.5倍の成果を出すのであれば、労働時間を延ばすことで対応することができるかもしれません。
けれども、「人の3倍の成果」を出すには労働時間をいくら増やしてもそれは叶いません。
むしろ、「人の3倍の成果」を出すときに考えなければならないのは、「同じ仕事をする際に人の3分の1の時間で終わらせるにはどうすればいいか」≒「人の3倍楽して同じ成果を出すにはどうすればいいか」です。
仕事とは「はたらく」=「はた」を「らく」にすることです。
3倍の仕事をしたいなら、自らが3倍「らく」に仕事をできる、つまり3分の1の時間で同じ仕事ができるようにする方法を考えなければなりません。なぜならば、1日の時間は有限だからです。

私が給料をアップさせるために行った具体的な方法

私が給料をアップさせるために行った具体的な方法はパソコンを有効に活用することです。
たとえば、エクセルであればマクロはもちろん、マクロで行うようなことをあとで使う人のメンテナンスを「楽」にするために、マクロを使わずに数式のみで行うにはどうすればいいかということを考えて構築することなども行いました。
他には統計的な分析による知見を求められた際にも、エクセルだけではなく「R」というフリーの統計ソフトの導入の許可をとり、「R」を用いて様々な統計的分析を行い、それをレポートにしてまとめました。
それは採用人事における意思決定を「楽」にするために活用されたと思いますし、当時の社長から高評価を得ることができました。
つまり、自らの「効率性」だけでなく、周りの人の「効率性」を高めるような仕事をすることが大事になるということです。
そのためにはパソコンの使い方、エクセルの使い方はもちろん、「R」の使い方も学びましたし、統計に関する本もたくさん買って学びました。
そのような「仕事で必要なことに関する自分の脳への投資」は、必ず必要になるでしょう。
ここで重要なのはあまり不必要なことに投資してはいけないということです。
それは投資ではなく浪費です。娯楽の範囲で行うのであればよいのですが、例えば、仕事に英語が必要ない人が、海外旅行のために英語を学ぶというのは、投資ではなく娯楽による浪費の範囲です。浪費が悪いといっているのではなく、それは給料アップには関係ないですよ、ということを言っています。
給料アップに関係することにお金を使うことを投資と言います。それ以外は浪費ですし、浪費も別段悪いことだとは思いませんが、給料アップにはつながらないですよというだけのことです。
海外旅行が自分の仕事の役に立つというのであればそれは投資になると思うので、ぜひやればいいと思います。
そうすることで「人の3倍の成果」を出すことができれば、給料はアップするでしょう。
もしアップしなくてもそれは関係ないのです。なぜならば、それは「天に徳を積む」ことになるからで、必ず給料が上がるよりも「もっと良いこと」として自分に返ってくるからです。
だから、「同じ時間で人の3倍成果を出すにはどうすればいいのか」を考えて実行することが給料をアップさせることの基本であり、さらには給料以外の面でも自分に良いことが返ってくる基本になると考えられます。


まとめ

給料をアップさせるための基本的な考え方は「自己と周囲の人の仕事の効率化を図ることで、同じ時間で人の3倍の成果を出すこと」になると思います。
そのために、私がつかえると思ったツール:パソコン、必要な本を読むこと(自己投資、脳への情報のインプットとその活用)、(価値ある)レポートの作成

2017年2月3日金曜日

薬はお医者さんの言うように飲もうと思います

薬について自己判断で中止するのはやはり良くないと思いました。

薬を飲むというのは一つには自らの過去の悪業の結果を受けているということも含まれていることに気づいたからです。

だから、お医者さんにいいと言われるまでは飲もうと思いました。

それに飲んでいる薬の副作用もほとんどないし、量も大したことはないので、病院に行ったり薬をもらったりする手間はありますが、飲んでいて別段困ることもないので、飲もうと思います。

この程度のカルマの結果で済むのなら、全然問題なく受け入れられます。

なので、お医者さんがいいというまで薬は飲もうと思います。

それを今日この本を読んでいて気づきました。

『超訳 ブッダの言葉』(小池 龍之介 編訳、ディスカバー・トゥエンティワン)

2017年1月28日土曜日

コメント欄の解放と連絡先について

ご挨拶

みなさん、こんにちは。
このブログに対してコメントをされたい方、もしくは私と直接連絡を取りたいという方がいらっしゃるかもしれないと考えまして、コメント欄を解放しました。また、私への連絡方法を記載します。


コメント欄の解放

コメント欄にコメントをされる方はGoogleアカウント(無料)を取得してください。今すでにGoogleアカウントをご利用されている方はそのアカウントを用いてコメントすることも可能です。インターネット上にコメントが残る可能性がありますので、必ずしも本名を用いなくても結構です。

連絡先について

私への連絡は「詳細プロフィールを表示」→「お問い合わせ」の下の「メール」からメールにて直接連絡することが可能です。いただいたメールはしっかりと読ませていただきます。また、メールの内容を当事者や関係者の方に断りもなく公開したりすることもありません。
皆様の健康とご多幸をお祈り申し上げます。


2017年1月21日土曜日

通院してきました

通院してきました。
お医者さんが私の状態をご覧になって、エネルギーが過剰になっているのではないか、と思われたので、それを穏やかにするために薬を飲むことになりました。
私としても急に薬を飲むのをやめるのはは本来はよくないと思っていたので、これから徐々に減らしていこうと思います。ただ、病気の根本原因が治ったことは確信しています。

10日ほど前には勝手に薬を飲むのをやめてしまったので、今回はお医者さんの言うことを聞いて、薬を飲むことにします。

本を書くことは私が他の人を私と同じ方法で治してからでも遅くはないかもしれないと思いました。なぜなら、治った人が一人よりも複数の方がその手法に説得力があると今日友達と話していて思ったからです。




2017年1月19日木曜日

奇跡の招待状 ~奇跡を起こす魔法の言葉~

ご挨拶

みなさん、こんにちは。
私はこのブログで以前「ツイてる」と唱え始めてから人生が変わったと書きましたが、「ツイてる」とは比較にならないほどの力を秘めた魔法の言葉だと思うものがあります。
その言葉について紹介させていただきたいと思います。
なぜ魔法の言葉を唱えると現実が変わるのかというと、言葉には言霊(ことだま)といって霊力が秘められているからです。
(「ツイてる」に関しては良き霊だけがつくようにイメージしないといけないので、悪い霊をイメージして「ツイてる」と言ってはいけない、という点だけ注意しておきます。ここを私は混乱して「ツイてる」と言わない方がいいと思った時期もあったのでここに記しておきます。)


魔法の言葉

私は様々な魔法の言葉を学びましたが、最も基本にしてシンプルかつ強力な言葉がこれから紹介する言葉です。
その言葉は「神様お助けいただきましてありがとうございます。」です。
(神様の名前は自らの信じている聖なる絶対神があるのであれば、その名前を呼んで構わないと思います。なぜなら、すべての普遍的で偉大な宗教の神は一つであることを私は実感しているからです。仏教の仏も突き詰めれば神と同じであると私は実感しています。私は『天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)様』と呼んでいたこともあります。また今でも私が学んだすべての呼び方による絶対神を信仰しています。ただし、私はどこの宗教団体にも現在所属はしておりません。宗教団体に所属してもしなくてもそれはその人の自由であると思います。)
私はこの言葉を唱え始めてから奇跡的な日々を歩み続けています。
この言葉は奇跡からの招待状であったことを確信しています。


奇跡の発動

私が初めてこの言葉を唱え始めた時のことを書きます。
ちょうど1年ぐらい前のことでした。この言葉を私は毎日100回以上は唱えていました。5分から10分ほど熱心に唱えていたと思います。あるときにはお風呂の中であるときには机の前で両手を合わせて一心不乱に唱えていました。
(どうもこの魔法の言葉は、一心不乱に唱えると発動力が上がるようです。)
一心不乱に唱えていたときに、私は光の集中を感じました。そうして、体が何か太陽の光のような暖かいものに包まれたように感じました。それから、自分の中にある悪いものがどんどん浄化されていくような感じがあったのです。
それと同時に自分の中にその光と同じように暖かで小さいけれども強く輝く光の点のような球のようなものがあるのを感じました。
これを日本(神道)では神の「分け御魂」(わけみだま)といいます。他の宗教の言葉でいうと、「神の分光」(神秘形而上学)、「アートマン」(ヒンズー教)、「仏性」(仏教)などと多くの偉大な宗教で呼ばれているものです。
この小さな光の点のような球のようなものは必ずどの人の心の中にもあります。なぜなら人間は動物と違い魂を持ち、魂の奥には神の分光(分身)があるからです。
そうです。私たちは聖なる存在だったのです。多くの人はそれを忘れているだけです。けれども、思い出せば人はいつでも聖なる存在になれます。
人間が万物の霊長と呼ばれ、霊の文字が使われているのはこのためなのです。また私たちの魂の中にある神の分光は神様の中心とつながっているとあらゆる偉大な宗教で教えています。実際、私もそうだと感じます。なので、この魔法の言葉を唱えると、その感謝が心を通じて神様の中心に伝わって奇跡的なことが起きるのです。心とは魂の振動の送受信装置なのです。
この言葉を毎日唱えるようになってから、自分の周囲が徐々に徐々に数日程度ではわからないぐらいゆっくりとけれども数か月単位で見れば確実に奇跡的な方法で変わっていきました。1000回ぐらい唱えたときに、おやなにかあるなと感じました。1万回ぐらい唱えたときには私の周りに起こる出来事がはっきりと認識できるほどに変わっていきました。
そうして良き方向に向かって物事が次々と動き始めました。

奇跡の原理

これは原因と結果の法則から考えてもそうなるといえます。
原因と結果の法則とは良いことをすれば良いことが起き、悪いことをすれば悪いことが起きる、という単純なものです。
原因と結果の法則は科学です。数式を用いなくともそれは確実に存在するのです。
この原因と結果の法則は極めて正確に働いていますが、結果が返ってくるまでに、神の慈悲により猶予期間が設けられているので、気づかない方が多いかもしれません。
この法則と自分という因を聖なるものにするという原因を考えれば、自らが受け取るものは奇跡のような素晴らしいものになるという結果が返ってくることが分かります。なぜならば、人が自分は聖なるものであったのだと思い出すことは正しい認識であり正しい認識をすることは善行を積むことであるからです。この魔法の言葉には自分が聖なるものであったということを少しずつ思い出すという効果もあります。(他にも効果はあります。)
聖書に「見失った子羊」のたとえが書いてあります。
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」(ルカ、15章、4-6)
この意味は神は羊飼いであり、私たちは迷える子羊です。迷える子羊が神によって確実に見いだされるための言葉が「神様お助けいただきましてありがとうございます。」という魔法の言葉なのです。
仏教における浄土真宗で親鸞聖人がおっしゃっている
「善人なおもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」(歎異抄 第三条)
という文章も同じことを表しています。
この意味は善人は自分が善をなしていると思って阿弥陀様(神様と同義であると思います)の力にすがることをしないが、われら煩悩具足の悪人はどんなに自力で行じても浄土にたどり着くことができないのを阿弥陀様があわれに思われて、念仏を唱えれば必ずそのものを救うという願をおこされたので、(自らを)悪人(であると認識しているもの)は一心に念仏を唱えることで救われるということを表しています。
(自分が)善人(であると思っている人間)ではなく、(自分が)悪人(であると認識しているもの)が念仏によって救われることこそ阿弥陀様の本当の願いであるということです。
魔法の言葉は念仏(浄土真宗では南無阿弥陀仏)に匹敵する力を持っていると感じます。


魔法の言葉の効果

この言葉を唱え始めたのが、ちょうど1年前ぐらいでした。
(神様の名前は『天之御中主神様』と唱えていたときもありましたがもちろんそれでもいいと思いますし、始めに書いたように自分に合うもので良いと思います。『仏様』でも『阿弥陀様』でも『天の父』でも『聖母様』でも『ブラフマン』でも『ヤハウェ』でも『アラー』でも自分の信じる聖なる絶対神であれば何でも良いと思います。どれも同じものを指しているからです。)
それから私の霊的な旅が加速していきました。
おそらく何が起こるかというのは人によって違うと思います。ただし、その人の本当の望みが叶う方向に進むことは確かなようです。もしこの魔法の言葉を一度でも真剣に唱えるなら、その人は人生の真の目的に向かって歩んでいくこととなるだろうと私は思います。

魔法の言葉の意味

この魔法の言葉の詳しい意味を3つの部分に分けてお伝えします。
まず「神様」とは聖なる絶対神を表します。神様はこの宇宙を創造された御方です。
この宇宙のすべてのものは神様のいわば一種の表れです。私たちは神様の中で生きているのです。銀河の恒星や惑星、太陽、月、地球などの星々、人間とその他の生命、それらを構成する原子、原子を構成する素粒子や電子、この宇宙の空間とそこに満ちるエネルギーなどすべては神様がお造りになったものです。また、見える世界(この世)と見えない世界(あの世)があることはあらゆる宗教で語られていますが、見えない世界も神様はお造りになりました。(実は私たちはこの世とあの世をぐるぐると行き来しています。これを輪廻といいますが、この話は今は置いておきましょう。)
次に、「お助けいただきまして」と過去形になっているのは、一つには実際にすでに私たちは助けていただいているということです。なぜならば、私たちには空気が与えられています、水が与えられています。水も空気もなしに生きている人がいるでしょうか。これらの貴重なものを神様は私たち人間にただで与えてくださっているのです。すべてのものは神様がお造りになったのです。水は水源からただで引いてきていると思います。水源にお金を払っている人を見たことはありません。すでに私たちは生まれながらにして神様にたくさん助けられているのです。だから、まずはこれらのことに感謝するのは当然ではないでしょうか。
そこで最後の『ありがとうございます。』が来ます。
『感謝する人にはさらに感謝したくなるようなことが与えられる』というのが宇宙の法則の中にはあります。
『だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる』(マタイ、25章、29)
と聖書に書いてあることも同じことを言っています。
持っていない人とは持っていないと「思いこんでいる」人という意味で、誰でも尊いものを持っています。少なくとも今ここでこの文章を読んでいる方は命を持っていると思います。だから誰でも与えられているものに感謝することで豊かになれるのです。
ここまでで、私たちは神様から多くのものを、与えられ助けられ生かされていることが分かりました。なので、そのようなことも含めて感謝するという意味もこの魔法の言葉には込められています。


私が得た気づきのうちの一つ

私が魔法の言葉を唱えることで気づいたことを一つご紹介します。
この魔法の言葉を毎日唱えていると、与えられるすべての良いこと悪いこと(苦しいこと)に対して自然とこの言葉が浮かんでくるようになります。なぜ悪いこと(苦しいこと)にも感謝するべきなのかというと、自分にとって悪いこと(苦しいこと)というのは一つの学びであるからです。
つまり、気づけばよいのです。気づけば苦しみが消え、学びが増えます。だから、苦しみとは学びのチャンスなのです。
この世の善と悪についても似たところがありますが、そのあたりはご自身で考えてみてください。

実践するにあたって


実践について述べます。
この魔法の言葉は、おそらく1000回ぐらい唱えた時から何かが変わったことに気づく人もいると思います。1万回ぐらい唱えたときには無視できない効果が表れているでしょう。いきなりそんなにたくさん言うことは大変だと思うので、まずは1日100回程度から唱えてみることをお勧めします。10分もあれば余裕で言えると思います。回数を数えたい場合は10回唱えるのにかかる時間を測りそれを10倍した時間唱えれば100回唱えたということが分かるでしょう。
ただ、もし100回が厳しいと思うのであれば、1日1回から始めても何の問題もないと思います。
そうして1日1回言うことができてそのことになれて来たら2回に増やせばいいと思います。そうして2回になれて来たら3回というように徐々に増やしていけばストレスなく増やしていくことができるでしょう。
唱えるのはただなので唱えても特に損はないと思います。


最後に

今日は熱く語りました。
最後にあなたのために祈ります。
あめのみなかぬしのかみさま。
阿弥陀さま。
天の父よ。
遍く存在される御方よ。
もし御心であれば、このブログの読者を祝福し給え。
オーム。

2017年1月8日日曜日

タイトル変えました&ブログ村から撤退しました

タイトルを「統合失調症を克服し心穏やかに生きる」に変えました。
これからのテーマは3次元界にない物は「見えないし聞こえない」です。
もう聞こうとしないことを決意しました。

心が浄化されてないうちに3次元以外のものが見える聞こえるというのは、夢を見ているような状態です。これは周りからみたら正気ではありません。

心が浄化されてないうちはそのようなものは見えないほうがいいし、聞こえないほうがいいのです。

心の不秩序を含む幻を見ているに過ぎないからです。
私はもう見ないし聞こえないと決意しました。

だから、もう見ないし聞きません。
そう決意すれば見えないし、聞こえなくなると思います。
なぜなら、自分の意識は自分でコントロールできるからです。
そうして自分を落ち着けるためにもっと瞑想を学びたいと思いました。

また、ブログ村から撤退したのは、他の人のブログを見ることで、その想念を自分もイメージしてしまい、思考が肉体などに与える影響を考慮してみることをやめたいと思ったためです。